フラメンコ大好きSakuraのBLOG

フラメンコ歴だけは無駄に長いSakuraがフラメンコの感動を綴ります。たまに別の観劇記録もはさまります。最近書き始めたばかりの手前勝手な鑑賞記録です。

フラメンコと和の出会い~新橋演舞場地下ラウンジ東から~

豪華な演舞場特選御膳にもフラメンコの色彩が紛れこんでいる。
黄金のパエリアに舌鼓を打ち、白身魚と筍のバーニャカウダを味わう。

舞台が始まる前のひととき。とろけそうに贅沢な時間を過ごした後に、いよいよその時がやってくる。


5月16日(火)、大量に書いちゃった記事を、今さらだがアップする。(雑誌パセオフラメンコ9月号の忘備録にはこれをシュッ、シュシュシュッとまとめたのを載せて頂きました)

鍵田真由美と佐藤浩希が編み出した今宵の公演の舞台は、新橋演舞場の地下ラウンジだ。

壁際に提灯が並ぶ和そのものの空間を、フラメンコとの架け橋にしようという大胆な試みである。

かねてよりフラメンコと日本の伝統音楽の間には切っても切れない絆があるように感じていた私は、心躍らせずにいられない。

客席を見ると背広姿の紳士も多い。和服の美人も品良く微笑んでいる。

舞台には琴や和太鼓などの和楽器が並ぶ。

 

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開幕一曲目のタイトルは『トレド』。

観客の度肝を抜く音が、いきなり舞台に響きわたる。

サパテアードと和太鼓だ。

舞台は一気に過熱する。

黒に金、赤に金の帯も艶やかな舞姫たちが舞台に現れる。

男は黒の三人節。

完全に和のリズムで足を踏む。

激しくなるサパテアードの中、太鼓を打つ男が割りこむ。
トンチキトンチキトンチキチキ!

太鼓にパルマ! 楽しいっっ!

日本人がその内に生まれながらにして持つ和のリズムが、遠いフラメンコの国を通って戻ってくる感じ。

和。なのに完全にフラメンコ。

 

ピアノの音と三味線で静けさが表現される。

鍵田真由美の腕がしなる。

空間に円弧を描き、日本の心がうたわれてゆく。

鍵田の手が背後に並んだ踊り子たちの上に魔法の粉を注ぎ、フラメンコと和の妖精たちが目覚める。

舞姫たちのリズミカルな動きに心奪われる。

歌舞伎の見栄という演出に近い振りが、次々に繰り出され、どれもが鮮やかに決まる。

やはりフラメンコと和は近いなあ。近すぎるくらい近いなあ。

 

佐藤浩希の軽妙洒脱なトークが差し挟まれ、観客をフラメンコの世界に誘う。

フラメンコ初めて観るって人いますか? という問いかけに、ぽつぽつと手が上がった。

なるほど、この企画はまさに日本におけるフラメンコを拡大する役を果たしている。素晴らしい!

 

フラメンコはまずカンテという歌から生まれました。

ヒターノの嘆きの歌にスペインの民謡なども取り入れて、長い年月をかけて培われたのがフラメンコです。

差別を受け、貧しい生活を強いられるヒターノたちの歌う嘆き、アイーアイーアイー、のっぴきならない歌詞も多い。

だがそれを、不幸はいったん自分たちの中に取り込んで、立ち向かい、笑いにもなってしまうような文化がフラメンコです。

フラメンコの揺りかごと言われるヘレスでは、手拍子で遊んでいる子供たちが、スーパー帰りのおばさんに、踊って!と手拍子とかけ声だけで踊ってもらっちゃいます。

共通言語として踊りがあるんですね。
では、かけ声をかけてみましょう。

「トーマッサイ、トーマッサイ、トーマイトーマイトッ」

観客たちにそう歌わせてくれ、「オレー!」とフラメンコのハレオもちょっぴりだけど教えて、舞台と会話する方法があることを教えてくれる佐藤さん。
工藤夫妻が出てきて、調子を合わせ、観客たちもパルマとハレオの渦に巻きこまれてゆく。

 

2『ロマンセ』
男女の踊りである。

マヌエラ・デ・ラ・マレーナが一人立って歌い始める。

甥っ子マレーナ・イーゴのギターが絡む。
赤い衣装の男と深緑色の衣装の女。

工藤朋子の体が男に寄り添う。

雄牛のごとき男と同じ振り付けで重なるようにして踊る女。

まったくもってフラメンコらしい演目だ。

二頭の牛が静かに寄り添っている。そんな印象。

やがて激しいサパテアードの応酬となり、佐藤浩市がトーマッサイと観客に教えたばかりのハレオをかける。

明るめのブレリアでフィニッシュ。

素晴らしいカンテでフラメンコの真髄を見せられた気分。

 

3『ガロティン』
赤いステージに二台のギターの音。

オレンジにブルーのシージョなど、長いフレコが揺れるシージョを巻き付けた舞姫たちが鋭い所作を示す。

小粋に踊る四人の女性に、二人の男性が花を添える。

パンチの効いたガロティンだ。
佐藤が血の匂いのするカンテと称したマヌエラの歌は、明るさの中に切なさを伴って消えてゆく。

踊り手たちの円陣が素晴らしい速度で回り始める。

あまりの激しさに胸が詰まる。

生あるものは必ず失われる。

その切なさが胸に迫る。

 

4『うつしみ』
もののあはれなり。
鍵田真由美のソロだ。白い衣装に墨で刷いたような模様が裾に流れている。それが舞台上では波を描くように見える。
澄んで素直な女声の歌が沁みる。
地を転げ、うちひしがれる鍵田のソロ。
葛藤と共に体を揺らす。激しく揺らす。サパテアードが舞台を回る。
底に寝そべり、転がって宇宙が拡がる。
まるで水面で舞う白い胡蝶のようだった。
サパテアードで打たれるたび、激しく跳ねる水のしぶきが目に見えるよう。
歌はらはら、琴と太鼓で美しく舞う花弁だ。
ブエルタは水面に渦巻く夢。
祈りと共に水面に消えてゆく儚げなる幽玄の時。

 

5『セラーナ』
一瞬、ギターの高いメロディが琴の音に聞こえた。
佐藤浩希の音は、ピアノと太鼓が表現していく。
黒。日本人であることを誇らしげに表現する。
彼のフラメンコには元来、和なるものが根源に在る。
桜でも舞い散っていれば合うのではと思わせる上品さがあふれている。
佐藤浩希のサパテアードは鼓童の鳴らす太鼓の音にもとてもよく似ていると、初めて感じた。

エタヒターナメタボニエント
日本人の歌うスペイン語のカンテは、どこか繊細で耳に心地よい。
わざとらしさのないフラメンコ。

歌舞伎の見栄のようでもある鋭いブエルタ

嵐の音のようなサパテアード。

パルマ隊の確実で見事な拍子という音楽。
なるほど、これはフラメンコで和を表現している。

 

佐藤浩希によるトーク
シギリージャ:ただひたすら孤独に山で一人泣きに行く。
キリストが背負う十字架より重い荷を背負っている。
そんな運命を吹き飛ばす生命力。

嵐。

迫力あるねえ、と隣の妙齢の男性客がつぶやいたのが印象的。

 

6『むすひ』
世界平和を願って。
海を越えてつながるフラメンコと和が表現される。
日本の芸能の方々との出会い、つながり、いろいろな人の思いとのつながり、いろんなものが生まれてゆく。
こうして互いに探り、右往左往し、長いときを過ごしているうち、長い時間をかけて生まれてゆくものがあるのではないか。新たなものが生まれゆくのではないか。という思いを掻き立てられる。

黒のシンプルなドレスで登場する舞姫たち。
現れた女性たちはみな美しく、姫と呼ばれるにふさわしい風貌である。それは身体的な表情からもにじみ出ているのかもしれない。

歌に合わせて動く乙女らは、あたかも海底に咲く花である。
フラメンコの腕(ブラソ)、手(マノ)の表現に促されて、目覚めてゆくのは日本人の魂。
海外の人にもこれなら伝わるだろう。

我々は我々であることを忘れてはならず、我々が表現できるものに限界を築くべきではないのだ。

そんな思いが広がってゆく。

 

フラメンコに接することによって目覚める和の魂。
西洋の妖精であった踊り子たちは、今や日本の舞姫であり、民族古来の、原始の動きそのものとなって先鋭化する。

三味線に合わせて飛び跳ねる。

サパテアードを太鼓と共に打ち付ける。

あらゆる音を拾って目覚めてゆく五感。満たされゆく和の心。

なんという快感だろう…!
日本人の奥底に在る、そもそも木々や花々や水に溶け込んでいる和の遺伝子が、ゆっくりと目を覚まして飛び立ってゆく。
天地(あめつち)むすぶ空。
つながって広がるのは人の思い。
海に囲まれた国、日本。

愛しさに震える。
真由美さんに抱かれる。生まれいづる花たち。
泡がはじける。
プチプチと割れてゆく音が聞こえる。

生まれる生まれる生まれる。

花が。心が。

生まれる。
細胞が増えてゆく感じにも似ている。こんな音はしないだろうか。
表現したい人たち。人間。感激。
生きていることへの 情感 儚さ リズム

カーテンコールは最後まで和のサーヤーで弾けて終わる。
琴、元々合うと思っていたがやはり合う。
強靱な上半身、美しいラスト。
トーマッサイと見送る観客たちの熱い視線。

特別な夜、特別な空間で、私たちの生まれた日本を心から味わった。

フラメンコの可能性がまたひとつ、果てしなく広がった瞬間だった。